内容のまとめ
(はじめに)
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この説は現状、実行犯犯人としてもっとも有力視されている説です。
といっても1つの説ではなく、大きく分けて2つの説に分かれます。
(1)今井信郎の自供による説
(2)渡辺一郎(篤)の遺言による説 です。
その2つの説についてまとめていきます。
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内容のまとめ
− 今井信郎
自供説 −
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まず1点目の今井信郎自供による説をまとめます。
ことの始まりは戊辰戦争が終結した明治3年2月、函館で降伏した
今井信郎の逮捕からです。
この今井信郎がこの時突然、龍馬・慎太郎の暗殺を自供したらしいの
です。「らしい」 というのも、当時この自供は公にされず、明治33年
になって 「近畿評論」 という本で発表されたからです。
その内容は、近江屋に向かったのは、京都見廻組組頭:佐々木只三郎
と、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井
大三郎の7名。
ただし、その7名の当日の役割は、今井の証言の時期によって異なる。
明治3年に供述した記録(口述書)によると、
→佐々木只三郎は十津川の偽名刺を渡し、1階の階段下で待機。2階に
上がって暗殺を「実行」したのは、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之
助の3名。今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の3名は表口、裏口およ
び住人脅迫の見張り役だった。
というものです。
ところが先に述べた明治33年の 「近畿評論」
によると、
→今井信郎、渡辺吉太郎、桂隼之助の3名が2階に上がって斬った。
刀の鞘は渡辺吉太郎が置き忘れた。
と変化および情報が追加されています。
いずれにしても今井の自供内容はとても詳細で、明治33年の発表時
以降は、「真実にもっとも近い説」 として今に至っています。
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内容のまとめ
− 渡辺一郎(篤)
自供説 −
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次に2点目の渡辺一郎(篤)の遺言による説をまとめます。
これは大正4年8月5日付の大阪朝日新聞11面に
・・
「阪本龍馬を殺害した老剣客 −悔恨の情に責められて逝く−」
という記事が制裁されたことに始まります。
その記事では「佐々木只三郎が龍馬の首を切り落とした」
等、かなり
の脚色がされていたことなどから、当時は全く信用されていないとの
ことでした。
しかし、渡辺一郎の遺言によって明らかにされたこの内容、実は明治
13年の原本と言うべき「摘書」が残っていることがわかり、にわか
に注目されるようになった説です。その摘書の内容要約は次の通り。
(1)襲撃したのは、佐々木只三郎の命により、佐々木、渡辺一郎、今井
信郎、世良俊郎の他2名の計6名
(2)龍馬と側にいた2名(慎太郎と藤吉)を斬るが給仕の少年は助ける。
(3)刀の鞘を忘れたのは世良俊郎。
(4)暗殺の報酬として毎月15人扶持(7升5合)を拝する。
人間の臨終間際に「事実を発表してほしい」といった内容に、こんな
大胆な嘘は付けないだろうということから、現実なのかと思わせる説
ですが・・・・。
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解説・疑問
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これだけの詳細な証言ができていた、という事実から、京都見廻組の
「実行犯」 としての確率は非常に高いと思います。
(また 「龍馬を斬った刀」 として 「桂隼之助の刀」
が結構認知され
ていますしね・・・・・。)
ただ現在において、「最有力な説」 ではあるけれど、「真説」
として
認知されていないのは何故でしょう。
それは気になる点が数多くあるからだと思います。それらの点を
まとめてみたいと思います。
(1)自分が犯人だ、と言う人間が2名(今井信郎・渡辺一郎)いること。
(2)その2名の自供および記録が食い違っていること。特に近江屋に向
かった人員構成が違う、鞘の持ち主が違うのは解せない。
(3)土佐:谷干城の調書(慎太郎の証言)と2人の証言に食い違いが数
点見られる点。
・(今井)2階には龍馬・慎太郎の他に3人の書生がいた。
・(渡辺)龍馬・慎太郎・藤吉を斬るが、給仕の少年は助ける。
・(谷)2階にいたのは龍馬・慎太郎・藤吉の3名である。
・(今井)龍馬と慎太郎の間に机があった。
・(谷)龍馬と慎太郎の間には行灯があっただけ。
これらの矛盾点だけで見廻組は犯人ではない、売名行為のための
供述だ、と決めつけるのは早計であり、数々の供述を覆す内容として
は弱すぎますね。
ただ 「事実」 であれば何故こんな矛盾点が出てくるのか、どうしても
納得できないのは事実です。
ただ先にも書きましたが、こんな供述・記録をしても何のメリットもな
いのも事実で、じゃあ良心による本当の供述・記録なのかというと、そ
れもおかしいと思います。良心だけで、こんな大事件の犯人だと自供・
記録するものなのでしょうか?
本当なのか嘘なのか?
ここでは、世間一般の 「龍馬暗殺実行犯:京都見廻組説」
に反抗
する形で、「あら探し」 をしてみたいと思います。
(1)見廻組には龍馬・慎太郎を暗殺するメリットが少ない。この時代に
両者を暗殺しても、何の評価もされないことはわかっていたはず。
見廻組の自爆的行動ではないか(幕府が倒れれば自分たちは消滅)
という説もありますが、それにしては用意周到すぎる。
(2)実行犯の見廻組にメリットが無いなら黒幕がいたはず。しかし見廻
組にそのような黒幕がいたとは思えない。幕府側としても龍馬暗殺
は差し止めていたはずだし、薩摩・岩倉・土佐等々とのつながりは
なく、見廻組の「黒幕」としてメリットがある組織・人間がいない。
(3)今井信郎は 「寺田屋事件」 で幕史2人を龍馬に射殺された恨み
による犯行、と動機を自供しているが・・・・。
幕府の 「龍馬暗殺差し止め」 の動きも察知できないものか?
見廻組という組織は?。その点は置くとしても、幕史2人の敵討ち
ならば、正当な行動であるとして、当時なぜ公にしなかったのか?
(4)なんといっても今井・渡辺の意見が違う点。特に今井の供述には、
渡辺一郎(篤)は出てこない。
(5)わざわざ (本当でない) 暗殺事実を何故明らかにしたのか、という
点について、私は次のように考えます。
(あくまで 「京都見廻組説」 を否定した場合の
「仮説」 です。)
・今井信郎は戊辰戦争で捕まった際、それなりの処罰(死刑)を
覚悟した。その時はほとんどの旧見廻組メンバは死亡しており
自分が何を供述しても否定する者はいない。であれば見廻組の
存在を歴史に残したい、自分の名を歴史に残したい、と考えた
供述ではなかったか。裏付けとしては、明治3年の口書の内容
では今井は見張り役だったのに、明治33年の発表では今井が
龍馬を斬ったと証言しており、「自慢」とも受け取れる内容に
変化している点です。
・渡辺一郎(篤)も今井と似たような考えではなかったか。今井
と渡辺は当然旧見廻組の同士であるため、渡辺は今井が供述し
た内容を聞かされていたはず。供述した口書が公になっても、
俺の名前は歴史に残らないではないか!と思ったのではないか。
そう思った渡辺は明治13年、まだ今井の口書が公になってい
ない時期に「摘書」を残し、「遺言」という最後のイベントを
利用したのではないか。
というものです。かなり強引ですが・・・・。
これまで 「京都見廻組説」 を 「否定」 する流れでまとめてきましたが
現在残っているいろんな史料等に推理を頼ると
(つまり 「憶測」 だけ
でなく) 、やはり実行犯は 「見廻組説」 が一番有力なのです。
皆さのん考えやいかに?
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