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KOBE
- 歴史の中の神戸 -
源義経

NHKの大河ドラマ「義経」。最終回では、タッキーの義経が、東北衣川で、藤原泰衡
の軍勢におそわれ、自刃するところでおわりました。時は文治5年(1189)閏4月30日
ですが、この義経の首はそれから1ヶ月半たった6月13日にようやく神奈川県鎌倉市腰越
で頼朝方に引き渡されました。首は腰越で和田義盛、梶原景時らによって首実検されま
した。ところで、この首が果たして義経のものかどうか、諸説あり、ひいては義経ジンギス
カン説にまで発展します。悲劇の若武者としていまでも人気のある義経伝説は数多く残っ
ています。


義経の「逆落とし」どこに?地元で論争が再燃
大河ドラマ「源義経」が始まって、神戸ではあの一の谷の逆落としの場所をめぐって論争が「再燃」してい
る。再燃というのは、20年前「源平800年」で公開討論会が行われて以来ということである。義経の逆落
としといえば、須磨一の谷か鵯越かという場所が長年論争になっているのだ。今回は「鵯越説」の兵庫歴
史研究会会長の梅村氏と「一の谷説」の須磨寺正覚院住職の三浦真厳氏が公開討論会を2月に行うと
いうことである。梅村氏は「一の谷とは須磨一の谷ではなく、もっと東の鵯越付近の難波一の谷で平家の
一部の陣地があったとしている。一方三浦氏は義経の目的は幼帝安徳天皇と三種の神器にあったから、
逆落としは須磨鉄拐山から一の谷へとするのが妥当と主張している。いずれにしても義経ブームが神戸
でも再燃しそうである。(1月25日)

「鹿も四つ足馬も四つ足鹿の越え行くこの坂道馬の越えざる道理はないと大将義経真っ先に」
とうたわれたのが有名な神 戸の鵯越である。ところで、神戸に住んでいるものにとっては、この鵯越と須磨一の谷の位置関係がどうもピンとこないのである。現在の鵯越というのは、長田であって須磨一の谷よりも相当東北の位置にある。また、一の谷も現在地は須磨浦であるが、当時の一の谷はいまの会下山付近といわれている。ともあれ、義経は、鵯越の急坂を馬で駆け下り、一の谷一帯に布陣した平家の大軍を、見事な奇襲作戦で打ち破ったのである。「義経というのは、まったく史上まれにみる軍事的天才です。非常に稀有な天才性と独創性を持ってましたね。たとえば、馬に乗った人間つまり、騎兵を騎兵として使った、世界史上最初の人物といっていいですね。」-作家 司馬遼太郎氏
寿永3年(1184)春まだ浅いころ、義経率いる騎馬隊は、六甲山の背後を大きく迂回して、丹波路から播磨を経て一の谷へと駒を進めていた。すでにその前年源氏に追われ都落ちした平家は、西に逃れて須磨一の谷に軍勢を集結していたのである。今の神戸市内の西部にある一の谷を東西から挟み撃ちにしょうというのが源氏方の作戦である。途中、三草の敵陣を突破した義経は、三木をすぎたあたりで隊を二手に分け、みずからは険しい山道へはいっていった。このあたり、山はさほど高くはないが、雑草が生茂り、砂交じりの岩肌は滑りやすく音に聞こえた難所である。義経は、地元の猟師を道案内に雇い、鷲尾三郎義久と名乗らせたという。今もこのあたりに鷲尾姓が多い。六甲連山、西の一角、尾根を越えると眼前に展望が開け、神戸の海と街が一望できる。神戸三宮、生田の森から須磨一の谷まで、延々10キロにわたって平家の陣が続いていた。海上には平家の軍船が赤旗をなびかせていたことであろう。その頭上に突如、義経の騎馬隊が現れたのである。 
  

探索
五条大橋から清水寺

暖冬のある日、京都の五条大橋、牛若丸と弁慶の有名な出会いの場所に行ってみた。地下鉄五条から東へ歩くと、五条大橋。その西端の中央分離帯に小さな噴水があり、そこに牛若丸と弁慶の一騎打ちの石像がある。そして五条大橋の欄干は昔ながらの古いもので往時をしのばせるものがある。橋は鴨川にかかっており、川にはユリカモメが群れていた。ここから東へ広い自動車の幹線道路が五条坂交差点まで延びている。この交差点を左に曲がると清水焼の店舗がならぶ清水坂である。清水寺までは観光客が絶えない。清水寺は牛若丸と弁慶の戦いの場でもあった。五条大橋で牛若丸の太刀を取り損ねた弁慶は、牛若の太刀があきらめられず、清水寺本堂前でふたたび牛若丸に挑んだが破れ、牛若丸が源氏の御曹司と知り、主従の関係となった。清水寺は京都の観光地でも有数の場所である。ここから北へ「三年坂」を下りて行くと「石塀小路」など京都らしい観光地がまっている。人力車に乗った「にせ舞妓」さんもほほえましい。2004.12.19

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