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クラシック界への大きな一石

「バッハ、その息子と周辺の作曲家たち」ライナーズノート


 サンプルCDが届いたとき,今度はどんな演奏だろうかとやりかけの仕事を早々に片付けて,早速聞くことにした。

 中世期,音楽家は同時に数学家でもあった。それから数百年間,音楽家は作曲家であり,他人の曲を演奏することはあまりなかった。しかし現代においては,音楽家のほとんどは演奏家で,作曲は一つの部門を指すといっても過言ではない。それでもなお音楽家は,あくまでオリジナルの楽器,もしくは楽器の態をなすもので演奏するのが通例である。このCDはその常識を覆したと言えるのではないだろうか。
 
 「MIDIピアニスト」とは聞きなれない言葉だが,誰しもが初めは戸惑いを覚えるだろう。いかにも21世紀を思わせる言葉だ。そもそも普通のコンサートにおける演奏者の集中力は多大なもので,一瞬の気のゆるみが事故の元になる。もちろんそれがいわゆるライブの醍醐味だが,その点CD録音の場合はやり直しがきくし,何度か録音して「いいとこ取り」の継ぎはぎも可能だ。ただライブでないので,聴者はどうしてもシビアな聞き方をしてしまうという,演奏者からして見れば怖いところでもある。MIDI演奏は,コンサートでは(あるとすれば),あらかじめ作っておいたデータをスイッチ一つで演奏させてしまうわけだが,それを理由に「非音楽的・非人間的だ」という批判は全く当たらない。CD録音の場合と同じような考え方で,あり得るのだ。

 かのグレン=グールドは,録音で名を馳せた人だが,もしグールドに先述の批判を当てはめる人がいるなら,同じようにMIDI演奏にもその批判を使うがよい。一度録音をして,後である個所をもっと強く弾いた方が良かったと感じたCD奏者が,そこの部分だけ何度か録りなおして入れ替えるとしたら,MIDI奏者にも全く同じことが言えるのだ。それほど,人間的だということである。それはCDをちょっと聞いただけで分かる。目の前には一枚の絵。そこは陽の光の差し込む近代的な美術館だ。壁にかかるその絵はどこかの田園風景で,木々がざわめき,光が反射して緑が眩しい。

 この演奏の精密さは,まさにグールドのそれを連想させ,そのまろやかな音色はちょうどモーツアルトの時代のフォルテピアノを彷彿させる。さすがにフォルテピアノにも関心が深い石田誠司氏の音らしい。全体を通してどの曲も暖かみがあり,しかも
洗練された装いを持つ。CDをよく聞くと,特に内声部の充実に目を見張るものがある。一人で弾くと右手が優先したり、外声部につけた装飾音符をそのまま内声部に模倣させることがしばしば困難になるものだが,その技術的な問題を,ものの見事に解決している。各声部の際立ちは見事で,2声なら2人で,3声なら3人でそれぞれアンサンブルしている感じがとてもいい。しかもそれぞれの声部が完璧に自立して,各声部が綾なしながら音楽を進めていく様は小気味良い。このCDに、ポリフォニー作品が少ないのが残念だ。また、トリルの美しさはどうだろう。一粒一粒が真珠の輝きを放っている。まさに石田氏の演奏家としての腕前に舌を巻くほかない。

 一口に腕前といっても,半端ではない。氏によれば,ダイナミクスやテンポなどは100段階もの設定が,一音一音についてできるのだそうだ。それぞれの音に強さ,長さ,弾く速度,音色などを入力する。そしてフレーズなりが出来たら通して鳴らしてみて,不満を感じる箇所をチェックしていく。そんな気の遠くなるような演奏データ製作をやっているのだ。これはある種,作曲過程に似ているのではないか。

 どれもすばらしい演奏だが,私が特に気に入ったのは,4曲目のD.スカルラッティと、11曲目のJ.S.バッハの3楽章だ。どれも速い曲だが,J.C.バッハの2楽章(第6曲目)など緩叙楽章は,趣味の問題であろうが,もう少し「揺らし」がほしい気がした。ただしこのことに関しては石田氏自らが,HPの中で「演奏家の揺らしすぎ」について言及しておられるので,ここでは触れないでおく。

 いずれにしてもこのCDがクラシック音楽界に対する大きな一石となることは間違いない。今後の作品の発表が期待される。また,MIDIピアニストの石田氏には失礼かもしれないが,ぜひチェンバロにも挑戦していただきたいものだ。

2000年7月13日
バロックオーボエ奏者 大谷文彦






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