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教育の森
元PTA会長 小島 一也
学校庭の西端に「思い出の丘」と記した石碑があるのをご存知でしょうか。
この丘は、柿生小学校百年祭の折、「教育の森」として整備した所で、丁度私が柿生中学のPTA会長の時でした。この地は元柿生小学校のあった所で、遡りますと明治三五年高等義胤小学校が創設された、柿生の学校教育発祥の地とも言える所です。
「思い出の丘」と記された場所には「二宮金次郎」の像がありました。昭和十年に建立されたもので「勤倹力行」と記されていましたが、勤労を尊ぶ「報徳思想」は、農村の柿生にはピッタリで、勉強に、家の手伝いに、金次郎像は私達の憧れであったようです。
当時の子供達の通学路は、現在も残る稲荷山の石段(一三〇段余)を上り、左に二宮金次郎像、そして、右に御真影を納めた「奉安殿」に最敬礼して校舎に向かったものです。
その奉安殿の跡地に「白井錠次郎先生領徳碑」と「臼井義胤翁料徳碑」が建立されています。
臼井先生の碑は、大正十二年に元上麻生学校(現サープラス柿生のところ)に建てられていたもので、臼井翁の碑は、昭和十六年当時の柿生国民学校同窓会が創り、
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戦争の為放置されたのを復元しました。
臼井錠次郎先生は、稲城市の生まれで、上麻生学校に明治十五年から四十年間教鞭を執られ、村からの信頼も厚く、先生を慕う子弟も多く、元参議院議員の鈴木恭一先生もその一人で、柿生における学校教師の草分け的存在であったようです。 石碑の題字には「帝国教育長、文学博士、澤柳政太郎」と記されており、いかにも時代調ですが、当時澤柳先生は文部大臣を凌ぐ日本の教育界の大立者であり、よく草深い田舎の教育者を顕彰くださったものと感じさせられるものがあります。
臼井義胤翁は下麻生、現碓井正治家の出身で、明治初年財を成した大富豪です。
碑の撰文に曰く、「一村ノ興隆ハ里塾ノ振作ニ係ル…義胤夙ニ教育ニ意アリ…」。
現在の柿生小学校や柿生中学校の前身、「義胤尋常高等小学校」を建設したのが義胤翁ですが、故郷である村の窮乏を救うべく、学校建設に投じた費用は、当時の村の予算を超えていたとの事です。
また、義胤翁は、住居の東京麻布桜田町でも、教育基金を設け奨学にあたっておられたようです。
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*教育の森を望んで*
私は、柿生小学校昭和十四年の卒業生なので、二宮金次郎像に励まされ、良くも悪くも奉安殿の前では厳しく躾られ学んできました。白井先生、義胤翁は、今日の柿生の教育がある恩人と尊敬し、誇りに思う人達です。
現在、柿生中学玄関前の池は、昭和四九年当時のPTA役員が酒匂川から石を運び作ったものです。沙羅双樹は、子供達の幸福を願って植えました。
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この池も、校舎も(老朽化から)近々取り壊される事になるでしょう。豊かな社会になって、教育論議はさまざまですが、心と物は天秤みたいなの。
「校舎は立派になっても、先人の思いの籠る『教育の森』は大切にして欲しい。」
今から私は秘かにそれを願っています。
小島一也さんのプロフィール |
昭和 2年 |
上麻生に生まれる |
昭和 23年 |
玉川学園工業専門学校卒業 |
昭和 51年 |
私立柿の実幼稚園園長 |
昭和 58年 |
川崎市議会委員(4期16年間) |
平成 7年 |
第31代川崎市議会議長就任 |
平成 14年 |
勲5等双光旭日章 受賞 |
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柿生小学校発祥の地
頌 徳 碑 白井錠次郎先生の碑

グランドから校舎を望んで 玄関前の沙羅双樹
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あゝわが母校
18期 原 慶應
昨年の同窓会総会におきまして、副会長の任を仰せつかりました原慶應です。よろしくお願いいたします。
柿生中学校を卒業して三十有余年が経ち、我が子の入学式で再び母校との関わりを持ち、年に数回学校に足を運ぶことができ、そして卒業と同時に再び縁遠くなったと思った矢先に今回のお話が来て、再度母校との接点ができた次第です。
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私の同級生の一部(栗木・黒川在住)は、今では学区が異なりますが、同期会などを行うと柿生中学時代の話題で盛り上がります。
学区の変遷については、数号前の同窓会報で特集していたようですが、昔の学区で意識されている年代は何歳くらいまでの人たちでしょうか?こうした今の学区外に住む同窓生の方々にも、今の柿生中学校の姿を少しでも伝えていきたいと考えております。
鈴木会長、他の役員の方々と共に少しでもお役に立つよう努力致しますので、今後とも宜しくお願い致します。
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柿生中学の思い出
前同窓会担当 前田高幸先生
8月末に、事務局の本多さんより原稿依頼の電話をいただき、あらためて柿生中学校を離れたことを実感させられました。
私は現在、川崎駅の西口から徒歩8分ほどのところにある南河原中学校に勤務しています。柿生中学校では女子バレーボール部の顧問をしていましたが、こちらでは、男子バレーボール部を担当しています。3年生8名しか部員がいないため、この10月でお役ご免となりそうな気配です。
さて、柿生中学校には、11年間お世話になりました。9月6日の土曜日に、11年前の生徒の結婚式に呼ばれました。同級生達もすっかり立派な成人となっており、時の長さを痛感しました。そのころの柿生中学校は、一学年が7クラスか8クラスあり、個性あふれる生徒達や先生方がいらっしゃり、にぎやかな毎日を送っていました。しかし、そのころの同窓会は、ほとんど名前ばかりで、卒業式前に卒業生の方を呼んで話しを聞き、同窓会入会式を行っていただけでした。当時、私自身も同窓会の会長さんがどなただか分からないような状況でした。ただ、柿友会(PTAのOB会)の歴代会長さんの中に、柿生中学校の卒業生の方が多くいらっしゃり、とても助けていただきました。
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そして、柿生中学校の50周年を契機に同窓会が生まれ変わり、新しい会長さんと役員の方々のもとで同窓会報の発行も始まりました。 この時の苦労は、当時の同窓会担当の星野先生(現在、犬蔵中学校)より聞いており、星野先生の後に同窓会の担当になったとき、その頃のみなさんの苦労を無駄にしないようにと肝に銘じて仕事をやらせて頂きました。
現在、柿生中学校の生徒達が勉強や部活動、さらにいろいろな行事に頑張れる環境を作る一役を同窓会の活動が担っていたように思います。特に、部活動で県大会や関東大会、全国大会にまで応援をいただき、顧問の先生や学校としてもずいぶん有り難かったと思います。
最後になりましたが、事務局の本多さんには、会報誌の編集から、ホームページの立ち上げなど本当にお世話になりました。同じ教員という仕事をもちながら、休日返上で後輩達のために、5年以上事務局をやっていただいていますが、そろそろ20代か30代の若い同窓生にバトンタッチして、さらなる柿生中学校同窓会の発展を期待してもいい時期に来ているように思います。
あらためて、11年間お世話になりました。今後の柿生中学校と同窓会のご発展を川崎のネオン街から祈っています。
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