明治44年4月23日、陸軍第4聯隊22師団大演習御観悦の為来仙、演習終了後当神社を親しく御参拝になられ、境内から旧仙台市街をご覧になられたことを記念して昭和12年に建てられました。




 桃生郡北村・伊東利蔵重村の次子で名を茂孝と称します。
 4代藩主綱村公が幼くして藩主となるも、一関城主で曽叔父にあたる伊達兵部宗勝が宗家にならんものと画策したことを憂い、同門の采女重門と謀り之れを阻止しようとしましたが、この計画が発覚して捕えられ寛文8年4月28日、誓願寺河原(旧愛宕橋下)で処刑されました。享年36歳。
 昭和12年宗家への孝心を顕影し建立したものです。





 大正12年、吉田つぎ刀自は石段の荒れていることを憂い、嗣子・二郎大人と共に石段の補修と拝殿までの敷石200余間(約364m)を奉納いたしました。その工事は二郎大人が陣頭指揮にあたり、監督に当たっております。現在のように機械力はありませんので当時は全て人力です。急な参道の石段を補修することは並大抵の労働力ではありませんでした。この工事の費用一切は吉田つぎ刀自が奉納した篤信家です。
 この誠意を後世に伝えるべく当時の力石雄一郎知事が篆額、竹駒神社大宮宗司社司之を撰文して、黄金山神社佐々木舜永社司が墨書し碑文としたものです。




 明治34年仙台市国分町芭蕉の辻(十九軒と称した)の小間物商菅喜に生を享け、長じて仙台商業学校卒業後詩趣を生かし、郷土詩壇の中軸として活躍、昭和3年上京し福士幸次郎、高村光太郎、草野心平、宮澤賢治らと共に日本詩壇の発展に尽くし数々の名詩を発表しておりましたが昭和7年危禍に会い急逝されました。31才でした。生前、鴉射亭・石川右京の名を用い童謡等貴重な作品を遺しております。



 

 昭和19年10月23日比島パラワン水道で戦闘中に被弾沈没し、乗組員480名が戦死されました。日夜寝食を共にした戦友がいまだ南溟の海底に眠っています。戦死者のうち宮城県出身者27名の戦友・御遺族が由緒ある愛宕神社の境内に石碑を建て霊安かれと祈り終戦50年を記念し建立されたものです。




 書家で諱は義徳周造と称し華樵と号しております。天保10年(1840)頃の生れで、幼いころから絵画に親しみ、長じて人物花鳥山水全て得意とされたと云われております。よく漢詩をも好み愛宕山と広瀬川を詠んだと思われる詩を有志一同が奉納されたものです。






 神道では境内の一木一草が御神木として往古から大事に育てられてきました。
 拝殿脇の老杉は樹齢約500年で、夫婦杉と呼ばれ崇敬者から大切にされてきました。この夫婦杉は旅人の目標であり、仙台の町を見守ってきた大杉です。
 そのほか境内には、ヒノキ・ヒバ等が植栽され、たくさんの樹木・草花が四季を飾ります。とりわけ、紅葉は愛宕大神様の御神恩に感謝し昭和初年、仙台花柳界が奉納したもので、春は濃い緑を、秋にはみごとな紅をもって色どり、市民の目を楽しませます。





 当神社境内裾野には、7世紀から8世紀初めにかけて造られた横穴古墳があります。
 昭和51年の都市計画街路工事中に発見された古墳もあり、愛宕山を中心に広く分布しております。
 横穴古墳は崖に横穴を掘って墓としたもので、玄室の奥の壁には円や円に十の字が入った文様を朱色で書かれているものや、数々の装飾品・土師器なども出土し、装飾古墳であることがわかったものです。